昭和53年10月16日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
生神とは、ここに神が生まれるという事でと。ここに神が生まれるという事が分からない。しかもみんなも、その通りのおかげが受けられると。せっかく信心をさせて頂くなら、やはり、ここんところを目指させてもらわないけません。ね。私は、ここのところを、只今、皆もその通りのおかげが受けられるという事は、どういう事だろうと。生神とは、ここに神が生まれるという事であると言われるが、生神とは、どういう境地を言うのだろうと。ここに今読むように頂いた事なんですけれども。
ここに筑豊地区の、この支部長さんで、安藤寿子さんという婦人がおられます。大変熱心な信心をされます。その、安藤寿子と頂くんです。安というのは、安心の安です。藤は、藤という字、草冠にこうね。としは寿なんです。じゅという字。ね。安藤寿子。ははぁ、わが心の中に、神が生まれるという事は、安心のおかげを頂いておることだなと思うんです。どんな場合であっても、心に安らぎ。心が安心しておれれる。そういう時が、生神のまあいうなら心であり境地なんです。
そのためには、やはり藤はね、藤の花とも頂けますから、まあ藤の花が綺麗にこう咲きますと、みんながはぁ綺麗に咲いたと言うて、下からこう見上げる花なんです。ね。人から見上げられるような、いうなら人格です。ね。これはまあ大変難しいように思いますけれども、それを今度は藤をそれこそ富士は日本一の山というその、富士山を目指すんです。ね。これならば誰でも出来ることです。富士山を目指すという事は、ね。富士登山なら富士登山を、例えば目指す
。大体私はまぁだ登った事がないから分からんけれども、ね。身体が大体健全なお人であるなら、誰でも志すことは出来る、目指すことは出来る。ね。始めから藤の花を目指すという事はなかなか。私はこんなに偉いんだぞと、例えば言うても人が見上げてくれなかったらね、出来ませんもん。ね。だから私共がね、本当にその日本一の富士の山を目指すという事なら誰でも出来るんです。
私は何時ももうこら、昔から思うておる事でしたけれども、いや昔からというのがこうして、段々信心に打ち込ませて頂く様になって、思うておる事ですけれども、ね。私は日本一有難い男にならせて頂こう、ね。私はどうでも日本一偉い人になろうという事には、とても出来ないです。頭は悪いし、健康は人並み優れたということでもないし、ね。偉い人にはなれませんけれども、有難い人にはなれるという事。生神金光大神という、最高その頂点。いわゆる生神を目指すという事。ね。
目指すことなら、誰でも出来るでしょうもん。富士山がはぁ富士山に一つ登ろうと思うたら、ちゃんと道は付いてるんですから、ね。そら何日がかりでか分かりませんけれども、登ろうと思えば登れるのです。ははぁ今日安藤寿子と頂いたが、この事だなと思いました。ね。寿子というのは、もう寿ですから、私共の願っておるおかげ、いや私共が幸せになりたいと思うその、幸せの条件の全てというふうに言うてもいいでしょうね。ね。「祝いめでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂る」というではないか。
生神金光大神は、ね。家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと。枝も栄える葉も茂る。本当に、毎日がおめでとうございますと言えれるような、おかげの頂けれる道を、教祖金光大神ご自身が辿られて、そしてそれを教えるのじゃとこう仰る。ね。だからいうなら日本一の富士山を目指さしていく道というものを教えるのじゃという事なんですから、誰でも、そこに願いをかければ、誰でも出来ることなんです。ね。頂上を極めるという事は出来ないにしましてもです。
それに一歩づつでも間違いなく登っていくことは出来るのです。ね。ですから先ずいうならば、そこを目指さなければいけない。そして段々おかげを頂いて、自分の心のなかに、ね。安心が生まれてくる。日々安らいだ心で過ごさせて頂けれる。それが喜びなんです。ね。ところがその心というのが、いつで、どんな場合でもというところに、いうなら私共は何時も、修行不足を感じるんです。ね。はぁこのくらいな事が心配な、このくらいな事が腹が立つ、ね。
そこに私共が、いよいよ目指さなければならない。はぁね、足りないなぁという事なんです。昨日大祭たんべんに、部屋部屋の軸とか、調度品が全部変わります。で私は部屋をずっと見て回って、新二階のを見ろうと思うて、あのやらせて頂いた。見事に色々軸から、置物から変わっておりました。ただたまたま、ちょうどあの宮崎の方達が二人で、もう早く着いておられた。
今鹿児島においでられて、あちらから直接こっちへこられたという方達なんです。でちょうどご夫婦で、それでお話されましたから、私もあそこへ座って、お茶でも頂きながら話したことでしたけれども。皆さんあの新二階に上がられますと、床の間を背中にして、こう見たところに、この小さい額が掛かっております。あの額には養素、養う素と書いてある。養う素というのは、味の素の素という字です。養素。あの額のお供えを頂いた時に、神様にお礼を申させて頂いたら、養素拝山という事を頂いた。
あれは拝山という人が、絵描きさんが書いた字なんです。お互いがね、栄養失調になっちゃいかんのです。富士山を目指しておるくらいですから。いつも心が豊かに、生き生きとしておらなきゃいけんのです。ね。もちろん心で登る富士山です。ですから心がいつも、生き生きと健全でなからなければならないです。だからそこにはほんなら、滋養を取らなければならんのです。ね。養う素というのは、拝山にあると言うのです。はいざんとは、拝む山と書いてある。山を拝むという事である。ね。
お互いが日々大なり小なり、いうならば山登りをしておるわけです。ね。「この世は苦の世だ苦の世界」だと言われるくらいですから。そういうほんなら人間にはいつも絶えず、そういう難儀苦労というものはあるのですけれども、御道の信心をさせて頂いて、ね。生神を目指す日本一有難い私になろうと、例えば目指させて頂くもの。これは金光教の信心をさせて頂く、全ての人がそうで実はあらなければいけない。それは、金光教の信心をさせていただくものは苦労はない。全部が修行なんだ。ね。
だから目指すところを目指させて頂いて、目指してそこに、到達することのための修行なんです日々が。ね。だからそういう頂き方をしないと、修行と苦労で受けてしまうんです。ね。だからそこへ座ってから、その今二人の、いわゆるご夫婦の方達に、私がお話させていただくんです。ね。とにかく自分の心を養うていくことのために、心が健全になっていく事のために、滋養を与えなければならない。ね。ほんなら、何が滋養になるかというと、ね。修行そのものが、心をいよいよ豊かにする。
心がいよいよ生き生きと健全に。それが難儀であるとか苦労であるで受けたら、そしたらきついばかり苦しいばかりである。修行に楽なことはない。はぁ修行と思うたら、ね。それこそ合掌して拝む山を拝む。修行を拝む。神様がこのようにしてお育て下さるというお礼を申し上げながら進んでいく。その辺から段々信心が楽しくなってくる。愉快になってくる。ね。ちょうど若い人達が、ね。例えば暑い最中にでも、大きなリュックかついで登山をするようなものですよと言うて、昨日話したことでした。ね。
あぁこの暑いのに、大きな荷物を担いで、まぁ何が良かなら、その山登りをするじゃろか。若い者の気持ちは分からんと、私共は言いもし、思いも致します。信心のない人達はそう言います。ほんに金光様の信心ちゃ、朝早うからあぁしてお参りして、お金も要るこっじゃろ、お賽銭もいることじゃろが。はぁご苦労なこつと。信心のない者は、そう言うんです。ところが信心をさせて頂く者はです。今私が申しますように、願いどころを願い、ね。求めるところが違うのです。
初めの間は、きついように思うておったけれども、段々、段々二合目、三合目、四合目という風にその信心がの段が、いうなら進んでいくというか高めていく。そすと第一どういう事になるかというと、視野が広うなるんです。この辺だけしか見えてなかったのがです、ね。ずうっと広い範囲が見えるようになるです。頂上ども極めたら、もうそれこそね。全てが下界のもののように見えるのです。ね。私共の心がね、いわゆる次元が違ってくるんです。ね。難儀と言うておる。
ほんなら私はおかげと頂いておる。ね。腹の立つ事だと、下界の人は言うておるけれども。登った人は、ね。腹の立つ段じゃなか、かえってお礼を申し上げておるというような心の状態が開けてくるんです。一歩一歩高められるにしたがって、視野が広うなって行く。有難いという気持ちは、いよいよ募ってくる。ね。それこそ頂上を極めた時にです、ね。頂上を極めたという一つの、まぁ喜びが、ね。湧くのだろうと思うのです登山なんかする人達がね。
頂上を極めた時の、そのまぁ快いという事は、もうそれこそ登山をしたもんでなからにゃ分からん。ね。いわゆる、信心をした者でなからにゃ分からん。信心をさせて頂いておらなければ、こういう喜びには触れられんという、その喜びがです、ね。示現活動ともなり、ね。人が助かり、我もまた助かるという、助かりの手立てが出来てくるんです。今日は、皆さん、ええですか。安藤寿子さんという事を、いっちょ覚えといて下さい。今日の御理解は、安藤寿子という事を頂いたんです。ね。
「生神とは、ここに神が生まれるという事であって」という事は、自分の心がね。例え、どういう心配事で、大体あるはずであるのにもかかわらず、私の心は安らいでおる。神様のお働きである。いやそれを、しようと受けておる自分が有難い。その時に初めて、自分というものが、拝めれる時なんです。こういうなかに、自分の心が拝めれる。この喜び、この安らぎは、どこから来るのであろうか。神様が与えて下さるもの。神様はいうならば、富士の頂上を目指す者のうえに下さる。
神様のお働きであることが分かってくるんです。ですから、目先の小さい、あれば貰わんなん、これば頂かんならんというような、ね。事は置いておけとは申しません。それは、あれは、痛ければ痛い、痒ければ痒いですから、願わなきゃなりませんけれども、けれども、私の願いは、もっと先の方になるんだ。だからこれはそのための修行なのだと、この中これを通して、また一段信心を進めさせて頂くのだという、生き生きとした元気な心がいることです。ね。始めから藤の花。
始めから、私を見上げなさいと言ったって、誰も見上げちゃくれん。そうして、段々登っていくところにです、ね。はぁなるほど、信心をされるようになって、ね。人間が変わられた。初めて見上げられるようになるのです。ね。ですから藤の花じゃなくて、言うなら、富士山を目指させて貰う。そして本気で、一歩一歩、それに、頂上に近付かせていただく精進がいるのです。なら、その精進がです。若い方達が、それこそ、重いリュックを担いで、山登りをする、あの楽しみ、その喜びと同じようなものがです。
信心の山登りにもいる。ね。そのためには、心を、いよいよ、健全に養うて行かなければならない。山だと思った修行、難儀だと思うておった、その難儀が拝めれる。拝山である。ね。それが、私共の心を養うていく素になるのですから。もう本当にもう、仇やおろそかには出来ません。困ったとか、難儀とか、痛い痒いという事に至るまで。ね。もうそれを自分の心の、いよいよ、滋養ともさせて頂いて、お互い、金光教の信心させて頂くものが、総生神を目指さなければいけないという事になるのです。
どうぞ。